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2008年11月 9日 (日)

ドキュメンタリー②

今野勉
「(吉田さんは)27歳の時にですね"記録映画との決別状"っていう論文を書いてるんですよ。それはですね、それまでの記録映画というのは製作者が言いたいことを正当化するために事実をそれにあわせて使ってて、それを押し付けたと。
で、我々テレビドキュメンタリーはそれから決別する。
まず事実ありきだと
その事実がどういうことか、色々隠さないで、事実に沿って取材していく。
それは、まず何かの仮説を立てて、その仮説に沿って事実を記録していくんだと。
もしかしたら結論は出ないかもしれない、それはそれで放送するんだというのも一方で言ってるんですよ。事実そのものを大事にすると同時に、表現の方法として、再現なんかも認めるという、かなり幅のある、原則があって応用するというのを、20代の内から宣言してやってたというのは、我々の先輩としては非常にありがたい事だったですね。」




吉田直哉「TOKYO」撮影時のエピソード。
東京に生きる孤独な女性の姿を追う。彼女は母親を探している。
放送後、母親が現れる。が、母親は彼女の金を持ち逃げして姿を消してしまう。
「私は彼女の実人生と目を借りて、その心象風景として東京を描いた。
その華美な部分は弾んだ気分のときに見た風景として描き、
汚れくすんだ部分は沈んだ気分の時に見た風景として描いて
東京の多面性を海外向けに描いたものとしては知能犯的な手法をとったつもりだった。
しかし、彼女は前よりもずっと不幸になってしまった。
私は無罪であろうか。とても無罪とは思えなかった。」




今野勉
「ドキュメンタリーというのは生きている人を映しますから、映したことでその人の人生が変わってしまうかもしれない、そのことを意識しながら常に本当に生きている人を撮影しなければならない。心あるドキュメンタリストは(そういう意識を)皆持っていると思いますよ。」





今はどうか分からないけど昔はこういう風にドキュメンタリーを捉えて製作していた人もいたっていうことだ。
しかし今も昔も、製作者側と視聴者側の意識に隔たりがある気はするし(演出かやらせか)
ドキュメンタリーって何かということがどんどん曖昧になっている気がする。
カメラが一人でに目の前にあるものを勝手に撮るなんてのはありえない。
撮っている人間撮られる人間がいるっていうことを理解しないといけないらしい。
ドキュメンタリーもあくまで「事実を基にした作品」と割り切ってみる事が必要なのか。




「考えるカメラであれ、考えるカメラであれば、考える道具であるテレビになりうる。」

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